東京高等裁判所 昭和57年(ネ)2936号 判決
二 前出≪証拠≫によれば、以下の各事実を認めることができる(但し、このうち請求原因2項の(一)の事実は当事者間において争いがない。)。
1 被控訴人恵美子は、昭和四八年一〇月二二日午後四時ごろ本件交通事故にあい、その際跳ね飛ばされて道路端の溝に落ち、請求原因2項の(一)記載の傷害を受けたが、その中で右下腿部の複雑骨折を伴う挫創は、長さ約三〇センチメートル、幅約一センチメートル、深さ筋、骨に達するもので、創縁は挫滅し、創面は平滑でなく、筋肉、皮膚の血流不良を伴い、かつ内部まで泥や土砂により著しく汚染されたものであった。
2 被控訴人恵美子は、救急車により同日午後四時二〇分ごろ控訴人神奈川県病院の緊急処置室に運ばれ、同病院の大岩医師の診察を受けたが、特に右下腿の創傷及びその汚染の程度がひどく、全身状態も不良だったので、同医師は同病院の丸谷眞医師の応援を頼み、この両医師が診察を行った。被控訴人恵美子の血圧は最高一一〇、最低七〇、脈博八八、ヘマトクリット値二六で、大量出血の結果直ちに輸血等の措置をとらなければ不可逆性ショックから死に至りかねないような状態であったので、右両医師は直ちに輸液、輸血を開始し、圧迫止血を行い、エックス線撮影により骨折部位を確認したうえ、前記のとおり汚染されている右下腿部の創傷につき、放置すればガスえそ等の感染の危険があるとの認識の下に生理食塩水二五〇〇ミリリットルを用い少なくとも三〇分以上の時間をかけてデブリドマン(デブリドマンとは、狭義ではメス、はさみなどを用いて汚染され又は壊死した組織を除去し創縁を切り整えることをいうが、広義では、右のほか、ピンセットなどを用いて創内の異物を除去することやブラシ、ガーゼ等を用い生理食塩水等により創傷の周囲及び創面を清浄化すること、すなわちブラッシングをも包含する。本判決においては専ら広義にこの言葉を用いる。)を行い、創傷の清浄化の目的を一応達したものと判断して、ドレーンを二か所に挿入したうえ創傷を縫合した。<中略>
三 控訴人病院の医師の過失、債務不履行の有無
(一) ≪証拠≫によれば、次の各事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。
(1) ガスえそとは、ガス発生を伴う感染症に対する総称であり、その大部分の原因となるクロストリディウム菌は土壤中にひろく存在し、土砂の付着による土壤感染が発生原因の大部分を占めている。
(2) ガスえその病原菌はすべて嫌気性であり、感染後ガスと毒素を発生し、筋繊維を互いに分離し、遂に死滅させ、隣接血管を閉塞し、更に毒素及び組織分解物は血液中に吸収され全身的症状を惹起し、やがて死に至る。症状の進行がきわめて速やかであることもその特徴である。近時は特殊な施設による高圧酸素療法が次第に行われるようになって来つつあるが、本件事故当時においては一般に発症後は外科的切除以外には十分有効な治療方法はないと考えられていた。
(3) したがって、ガスえそについては発症後の治療よりも予防の方が重要であり、そのためには、受傷直後の創傷処理において創傷部分をよく洗滌して清浄化するとともに、血行を失い壊死に陥った組織や汚染された組織を十分に除去すること(デプリドマン)が肝要であり、全身状態、創傷の態様、汚染の程度等から十分なデブリドマンが困難な場合には、創傷を開放性に処置し(これによって菌の増殖を抑えることができる。)、健全な肉芽の形成を確認してから更にデブリドマンを行って縫合する配慮が必要である。
(4) 本件の被控訴人恵美子の右下腿の創傷のように土壤等によりひどく汚染された創傷の場合、ガスえその発生し易い条件が備わっているが、このような場合でも、受傷後六時間以内にデブリドマンを行えば、感染を免れる可能性はかなり高い。
(5) 但し、デブリドマンによる偶発創の無菌化には限界があり、徹底的にデブリドマンを行ってもなおガスえそ発症の危険が皆無とはいえない。しかし、創面にガスえそ菌が存在することが必ずしも発症を意味するのではなく、傷害の性質が複雑骨折、筋肉の挫滅、高度の血行障害等を伴うものであることに加えて、全身の抵抗減弱やショック、出血等が発症を助長するものである。
(6) 創傷を開放性に処置することは、反面において、細菌感染をひき起こし、また、本件のような大きな創傷では骨、軟部組織の壊死を招くおそれがあり、出血防止の点からいっても好ましくない。したがって、開放性に処置するかどうかは、このような危険とデブリドマンが十分に行われたかどうかとの点とのかね合いの問題として、個々の場合について医師が判断すべき事柄であり、一定の程度の創傷の場合には開放性に処置すべきであるというような一般的基準が存するわけではない。
(7) 本件におけるドレーンの挿入は、創傷からの浸出液や出血を排出することを目的とするものであり、前記の開放性処置とは関係がなく、ドレーンの抜去の時期いかんもガスえその発症防止上特に意味をもつものではない。
(二) 被控訴人らは、控訴人神奈川県病院の医師らには被控訴人恵美子に対し十分なデブリドマンを行わず、しかも創傷を開放性に処置しなかった点において過失又は診療契約上の債務不履行がある旨主張する。しかしながら、以上認定したような本件傷害の状況、その診療経過及びガスえそ発症の予防方法に関する一般的知見からすると、右医師らの行ったデブリドマンの内容は一般的医学水準から見て相当なものであったと認められ、また、創傷の大きさや患者の全身状態から見て、右デブリドマン後創傷を開放性に処置しなかったことが不相当であったとは断じ難い。結果的にはガスえそが発症しているのであるから、右デブリドマンは十分功を奏さなかったことになるが、そのことから直ちに右デブリドマンの施行方法が不適切であったか、あるいは開放性に処置しなかった判断につき過失があったものと推認することはできず、そのほか右医師らに被控訴人ら主張のような過失又は債務不履行があったことを認めるに足りる証拠はない。
(鈴木 加茂 梶村)